やり方が分からないで計画を立てられるか?

群馬医療福祉大学 久田信行

hisata-n@amail.plala.or.jp

令和元年51()

私は、昨年から新しい自立活動について本気で検討してきて、はたと重要なことに気づいた。当たり前すぎる事だが、「どうするか」というやり方が分からないと計画を立てることが出来ないという事実である。

自立活動の今回の改訂は、内容は微修正であるが、個別の指導計画の立て方について大幅な改訂が行われた。大変な努力で、計画の立て方が詳述された。立派な業績だと思った。せっかくの労作だが、計画の立て方という手順段取りを文章にするのは大変難しく、読み取るのも難しさがある。私は、ある事例について作業をしながら読み進み、自立活動編の書き手が大変な努力と配慮をして書き込んでいることに気づいた。

さらに、それらの作業の過程で様々なことを考え、いくつかの工夫も考え出した。そして、関連の本を読んだり、学校の先生方と小さな研究会をしたりしている中で、上記の、当たり前すぎる事に気づいた。やり方が分からないと計画を立てることが出来ないということである。

ある日、急に玄関ドアの鍵がかからなくなった。こんなときの問題をどう解決するかという例で「やり方が分からないと計画を立てられない」ことを考えてみよう。

キーを鍵穴に入れるが、全く回転しない。屋内から鍵を回すと閉まるが、キーだとびくとも動かない。キーは見たところ、奥まで届いているので、何かを鍵穴に入れられた訳ではない。

 

1.「やり方」が分からない場合の計画

普通、技術がないと、「鍵をかけられなくなった。外出時に鍵をかけないと泥棒に入られるのでどうしよう」と困ったことに気持ちが向くが、直接的な解決策を考えることが出来ない。しかし、素人でもいろいろな解決策を考える。例えば、玄関のドアは内側から鍵をかけて、庭の方の、窓の鍵をかけない状態で外出するなどの作戦を考えたりする。しかし、これは付随的な作戦で、問題の本質的な解決策ではない。やり方が分からないのでお手上げである。ある種のごまかし方も強いて言えば計画になるかもしれないが、解決策ではない。結局は、技術を持っている大工さんや鍵の専門店(以下、鍵屋さん)に依頼することを思いつくのがやっとである。

2.少しの技術を持つ人の計画

ちょっとだけ日曜大工が好きで DIY の情報など知っている人は、ホームセンターなどで、臨時にロックできる鍵がないかと探しに行くこともある。自分で鍵を付け替えられないかとまで考える人も居る。臨時の鍵や鍵本体の付け替えなど「ちょっと技術のある人の計画」は、それなりに「計画」と呼べる。それは、どうするか「やり方」が含まれているからである。ただし、そこには「診断的評価」が抜けていて、鍵をかけられなくなっている故障の診断が欠けている。そこで、代替案か交換案だけが検討され、計画されている。

3.専門家の計画

これが専門家になると、鍵の故障の診断をして、修理ができるか?交換できるか?など検討する。代替品がない場合、新しい鍵をドアの上や下に設置するとか、ドア本体を交換するなど、診断に基づいて様々な選択肢が検討され、その検討の結果として「改善策(計画)」が立案される。これを「玄人の計画」と呼ぶことにする。

いくつもの解決の方法を持っている(安易に「解決の方法を知っている」と書かなかったのは、方法や技術を身につけていることは、認知しているだけでないし、知識があるだけでもない点を明確にしたいからである。物知りだけでは、技術的問題を解決できない。知識と経験と技術は関連するが独立の体系があるという認識が、実際に仕事を遂行するには不可欠である。

 専門家と言っても様々で、例えば大工さんだとドアごと交換する技術に詳しいので、その方向へ行きやすく、「鍵屋さん」は、鍵の解錠や洗浄から発想する。ドアの交換は自分の専門外なので、最初からは発想しない。建築金物としての鍵の専門店の人は、より新しいシリンダー(鍵の心臓部の部品)への交換や、別のタイプの鍵の交換の方向へ発想が向きやすい。数多くの鍵の種類を知っていて、専らその交換を専門としているからである。

 やり方が分からない、方法論がない、技術がない、技能が低い、技術に関する知識が無いなどすると、だれかに助けてもらうことを考える。上記の鍵の例だと、町中の鍵屋さんに依頼するのである。特別支援学校の自立活動について言うと、特別支援学校教員免許を有する教員が専門家である。自立活動教諭という専門の教員がいるが、それは、自立活動の一部だけについて教員以外の専門職の力を導入するために設けられた特別免許である。例えば、自立活動の一部の身体の動きについて理学療法士に学校への門戸を開くために、学校教育に関する事項を勉強してもらい、自立活動の一部に限った教員免許を与える制度である。筆者も理学療法士、作業療法士、言語聴覚士と一緒に働いて、いろいろ学ばせてもらった経験があり、それらの職種が学校へ参入することは、基本的には賛成である。

しかし、自立活動は教育活動であり、その一番の専門家は特別支援学校教員免許を有する教員である事が基本である。その基本が弱いまま、いわゆる専門家を増やす政策は誤りと思う。(中心になるべき、特別支援学校教諭免許を持った先生方の力を高めることが不可欠という意味であり、その政策がきちんとつけられるなら、自立活動免許という特別免許はもっと増やしても良いと思っている。)

鍵屋さんが新しい鍵の研修を受けるように、専門家は必要な研修を受けたり、勉強したり、練習したりして、自らの技量を高めることで専門家たり得る。特別支援学校教諭免許状の取得において、独立の自立活動の授業、特に「やり方」の授業がきちんと位置づけられていないことは大いに問題である。なぜなら、他の免許との最大の違いは、教育課程において自立活動があるという点である。障害に関する生理、心理、病理を学び、障害の特性に関する知識をもつこととともに、それらの障害や独特の困難に対する教育課程や対処法を知り、更に教育内容・方法(特に自立活動の指導法)について専門性を発揮できてはじめて特別支援学校教諭たり得るのである。

自立活動というカリキュラムの領域について、必要とする知識と技能を、大学だけでなく、職場内研修(OJT)などに加えて、自己研鑽して一人前の専門の教諭になっていく体勢を早急に再構築する必要がある。

そのような、専門的な知識と技能を有しない教師は、普通の授業に近いようなお勉強モデルの方法を適用することになる。教育内容を難しくないものにしたり、教材を工夫したりして、何とか児童生徒の反応を引き出そうと努力をする。多大な努力で、良いだろうと思われる活動の頻度を高めることに成功しても、少し増やすだけに過ぎない。きっかけになる教材(物)に頼っていても、活動を繰り返してどう変化させていくか、どう発達させていくかの方法(やり方)を意識していないので、褒めるだけで、変化させる手立てに欠けている。

 その子が手を伸ばす頻度が高い物を用意して、その物に手を伸ばす活動を誘い、伸ばしたら褒める。そんな授業で、どのような方法論や技法が必要だろうか?出来たら褒めるという「強化」という操作は意識しているかもしれないが、その物を目で捉えるための姿勢(坐り方、首のコントロール等)や眼の使い方、手を伸ばす時の姿勢(体勢の取り方)、肘の伸ばし方、掴み方等々を具体的にどうやらせるか、掴んで引き寄せる力を入れたときどの程度の負荷をかけるか、引き寄せる動きにどう支援するかなど、教師自身がどうするか、「やり方」を知らないでいると、プランを立てることが出来ない。何となく、手を伸ばすのをコトバで促し、たまたま出来たらコトバで褒めることを繰り返している。コトバ掛けも方法の一種と言えなくはないが、素人芸だし、方法を意識していないので、技術の進歩も期待しにくい。

 重度重複障害児の身体のどこを支えて、車椅子からマットの上へ移動させるかを知らないと、不安定な姿勢で移動させたり、無理な力が身体にかかったりする。極端な場合には事故になることもあり得る。多くの場合は、常識的な介護のやり方で済むが、介助者にとって大きな負担になる方法も散見される。なにより不安定で、子どもが安心して身を委ねることが出来ない。

  自立活動の方法について、専門家と言える先生が本当は学校にいる。特に、ベテランの先生の中には、極めて高い知識と技能を有している先生がいる。しかし、現在は悪貨が良貨を駆逐するというように、安直なお勉強モデルで、ベタベタと褒めるだけの先生が多く見られる。それでよしと誤解している。そんなんじゃ無い、と保護者からお叱りを受けるのではないかとヒヤヒヤする。例えば、肢体不自由の特別支援学校で、身体の動きについての指導が専門的なレベルで行えないなら、それは専門の学校とは言えない。

当たり前すぎる事だが、個別の指導計画を立案する前提として、教師に、どうするかという「やり方」の学習と練習が不可欠で、教員養成も含めて、再考する必要があるのではなかろうか。                                                          (以上)